君に恋ひうらぶれ居れば 敷の 野の 秋萩凌ぎ さ雄鹿鳴くも
このころの秋の朝明に霧隠り妻呼ぶ鹿の声のさやけさ
春日野の萩し散りなば 朝東風の風にたぐひて 此処に散り来ね
秋風は急くとく吹き来 萩の花散らまく惜しみ 競ひ立つ見む
この夕 秋風吹きぬ 白露に争ふ萩の 明日咲かむ見む
奥山に住むとふ鹿の 宵さらず 妻問う萩の 散らまく惜しも
真田葛延ふ 夏野のしげくかく恋ひば まことわが命 常ならめやも
このころの 恋のしげけく夏草の 刈り払へども 生ひしくごとし
人言(ひとごと)は 夏野の草のしげくとも 妹(いも)とわれとし 携(たづさ)はり寝ば
晩蝉(ひぐらし)は時と鳴けども 恋ふるにし 手弱女(たわやめ)われは時わかず泣く
黙然(もだ)もあらむ時も鳴かなむ 晩蝉(ひぐらし)のもの思ふ時に鳴きつつもとな
わが衣(きぬ)を君に着せよと 霍公鳥われをうながす 袖に来居(きゐ)つつ
橘の林を植ゑむ 霍公鳥常に冬まで住み渡るがね
卯の花の散らまく惜しみ 霍公鳥野に出(で)山に入り 来鳴き響(とよも)す
うれたきや 醜霍公鳥(しこほととぎす) 今こそは声の涸(か)るがに来鳴き響(とよ)めめ
会ひ難き君に会へる夜(よ) 霍公鳥 他(あた)し時ゆは今こそ鳴かめ
朝霞たなびく野辺に あしひきの山霍公鳥(やまほととぎす)いつか来鳴かむ
春山の馬酔木(あしび)の花の 悪(あ)しからぬ君にはしゑや寄さゆともよし
かくしあらば何か植ゑけむ 山吹の止む時もなく恋ふらく思へば
春されば卯の花ぐたし わが越えし妹が垣間(かきま)は荒れにけるかも
わが宿の毛桃(けもも)の下に月夜(つくよ)さし 下心(したごころ)良し うたてこのころ
朝霞春日(はるひ)の暮れば 木(こ)の間(ま)より移ろふ月を 何時(いつ)とか待たむ
春されば木の木暗(このくれ)の夕月夜(ゆふづくよ) おほつかなしも 山陰(やまかげ)にして
春霞たなびく今日の夕月夜(ゆふづくよ) 清く照るらむ 高松の野に
ももしきの大宮人(おほみやひと)の蘰(かづら)けるしだり柳は 見れど飽かぬかも
朝な朝なわが見る柳 鶯の来居(きゐ)て鳴くべき森に早(はや)なれ
山のまの雪は消(け)ざるを みなぎらふ川のそひには萌えにけるかも
鶯(うぐひす)の春になるらし 春日山(かすがやま)霞たなびく 夜目(よめ)に見れども
冬過ぎて春来(きた)るらし 朝日さす春日(かすが)の山に 霞たなびく
雪をおきて梅をな恋ひそ あしひきの山片付(かたつ)きて家居(いえゐ)せる君
風交(まじ)り雪は降りつつ しかすがに 霞たなびき春さりにけり
命をし真幸(まさき)くもがも 名欲山(なほりやま)岩踏(いはふ)み平(なら)し またまたも来(こ)む
明日よりはわれは恋ひむな 名欲山(なほりやま)岩踏(いわふ)み平(なら)し 君が越え去(い)なば
君なくは何(な)ぞ身装(みよそ)はむ 櫛笥(くしげ)なる黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)も取らむとも思はず
絶等寸(たゆらき)の山の峰(を)の上(へ)の桜花 咲かむ春べは 君し偲はむ
かくのみし恋ひし渡れば たまきはる命もわれは惜しけくもなし
石上布留(いそのかみふる)の早稲田(わさだ)の 穂には出でず 心のうちに恋ふるこのころ
豊国 (とよくに)の香春(かはる)は我家(わぎへ) 紐児(ひものこ)にいつがりをれば 香春は我家
冬ごもり春べを恋ひて植ゑし木の 実になる時を片待つわれぞ
妹(いも)が門入(かどい)り泉川(いづみがは)の常滑(とこなめ)に み雪残れり いまだ冬かも
玉くしげ明けまく惜しきあたら夜(よ)を 衣手(ころもで)離(か)れて ひとりかも寝む
秋風に山吹の瀬の響(な)るなへに 天雲(あまくも)翔(か)ける雁に会ふかも
巨椋(おほくら)の入江響(とよ)むなり 射目人(いめひと)の伏見が田居に雁渡るらし
旅であるので、この夜中をさして照る月が、高島山に隠れてゆくのが惜しい
あぶり干す人もあれやも 濡衣(ぬれきぬ)を家にはやらな 旅のしるしに
白鳥(しらとり)の鷺坂山(さぎさかやま)の松蔭に 宿りて行かな 夜もふけ行くを
今造る久邇(くに)の都は 山川の清(さや)けき見れば うべ知らすらし
前日(をとつひ)も昨日(きのふ)も今日(けふ)も見つれども 明日さへ見まく欲しき君かも
あらかじめ君来(き)まさむと知らませば 門(かど)に宿(やど)にも玉(たま)敷かましを
橘は 実さへ花さへその葉さへ 枝(え)に霜降れどいや常葉(とこは)の木
馬の歩み押さへ止(とど)めよ 住吉(すみのへ)の岸の黄土(はにふ)に にほひて行かむ
雲隠(くもがく)り行方を無みと わが恋ふる月をや君が見まく欲(ほ)りする
雨隠(あまごも)り三笠の山を高みかも 月の出で来ぬ 夜(よ)は降(くた)ちつつ
ますらをの行くと ふ道ぞ おほろかに思ひて行くな ますらをの伴(とも)
わが背子(せこ)に恋ふれば苦し 暇(いとま)あらば拾(ひり)ひて行かむ恋忘貝(こひわすれがひ)
隼人(はやひと)の瀬戸の巌(いはほ)も 年魚(あゆ)走る吉野の滝(たぎ)になほ及(し)かずけり
梅柳過ぐらく惜しみ 佐保の内に遊びしことを 宮もとどろに
須磨の海人(あま)の塩焼衣(しほやきぎぬ)の なれなばか 一日(ひとひ)も君を忘れて思はむ
鏡なすわが見し君を 阿婆(あば)の野の花橘の玉に拾(ひり)ひつ
咲く花の色は変らず ももしきの大宮人ぞたち変りける
千鳥鳴くみ吉野川の川音(かはと)なす 止む時なしに思ほゆる君
泊瀬女(はつせめ)の造る木綿花(ゆふはな) み吉野の滝(たぎ)の水沫(みなわ)に咲きにけらずや
天(あめ)にます月読(つくよみ)をとこ 幣(まひ)はせむ 今夜(こよひ)の長さ五百夜(いほよ)継ぎこそ
月立ちてただ三日月の眉根(まよね)掻(か)き 日(け)長く恋ひし君に会へるかも
凡(おほ)ならばかもかも為(せ)むを 畏(かしこ)みと振りたき袖を忍(しの)びてあるかも
いざ子ども 香椎(かしい)の潟(かた)に 白たへの袖さへぬれて朝菜摘みてむ
朝凪(あさなぎ)に楫(かぢ)の音(と)聞ゆ 御食(みけ)つ国野島(のしま)の海人(あま)の船にしあるらし
み吉野の象山(きさやま)のまの木末(こぬれ)には ここだも騒く鳥の声かも
若の浦に潮満ち来れば 潟(かた)を無み 葦辺(あしべ)をさして鶴(だづ)鳴き渡る
山高み白木綿花(しらゆふはな)に落ち激(たぎ)つ 滝(たぎ)の河内(かふち)は 見れど飽かぬかも
世間(よのなか)を憂(う)しとやさしと思へども 飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
常知らぬ道の長手(ながて)を くれくれといかにか行かむ 糧米(かりて)は無しに
春されば我家(わぎへ)の里の川門(かはと)には 鮎子(あゆこ)さ走(
ばし)る 君待ちがてに
銀(しろかね)も金(くがね)も玉も 何せむに優(まさ)れる宝 子に及(し)かめやも
春風の音にし出(で)なば ありさりて今ならずとも君がまにまに
忘草(わすれぐさ)わが下紐に着けたれど 鬼(しこ)の醜草(しこくさ) 言(こと)にしありけり
夕闇は道たづたづし 月待ちていませ わが背子その間(ま)にも見む
わが背子を相見しその日 今日までに わが衣手は乾(ふ)る時も無し
恋は今はあらじ とわれは思へるを いづくの恋ぞつかみかかれる
何すとか使の来(き)つる 君をこそかにもかくにも待ちがてにすれ
うつせみの人目を繁み 石橋(いははし)の間近(まちか)き君に恋ひ渡るかも
大和へに君が立つ日の近づけば 野に立つ鹿もとよみてぞ鳴く
韓人(からひと)の衣染(ころもし)むとふ紫の こころに染みて思ほゆるかも
古人(ふるひと)の賜(たま)へしめたる吉備の酒 病めばすべなし貫簀(ぬきす)賜(たば)らむ
庭に立つ麻手(あさで)刈り干し 布さらす 東女(あづまをみな)を忘れたまふな
わが背子が著(け)せる衣の針目落ちず 入りにけらしも わがこころさへ
秋の田の穂田(ほだ)の刈(かり)ばかか寄り合はば そこもか人の吾(あ)を言(こと )なさむ
み熊野の浦の浜木綿(はまゆふ) 百重(ももへ)なす心は思(も)へど 直(ただ)に会はぬかも
君待つとわが恋ひをれば わが宿のすだれ動かし秋の風吹く
軽(かる)の池の浦廻(うらみ)行き廻(み)る鴨すらに 玉藻のうへにひとり寝なくに
夜光る玉といふとも 酒飲みてこころをやるに あにしかめやも
憶良らは今は罷(まか)らむ 子泣くらむ それその母も吾(あ)を待つらむぞ
しらぬひ筑紫(つくし)の綿は 身につけていまだは着ねど暖かに見ゆ
大海(わたつみ)の沖に持ち行きて放つとも うれむぞこれがよみがへりなむ
矢釣山(やつりやま)木立(こだち)も見えず 降りまがふ雪にさわける朝(あした)楽しも
苦しくも降り来る雨か 神(みわ)の先狭野(さの)の渡りに家もあらなくに
近江の海 夕波千鳥 汝(な)が鳴けば こころもしのにいにしへ思ほゆ
東(ひむかし)の市の植木の木垂(こだ)るまで 会はず久しみ うべ恋ひにけり
かくゆゑに見じといふものを 楽浪(ささなみ)の旧(ふる)き都を見せつつもとな
我妹子(わぎもこ)に猪名野(ゐなの)は見せつ 名次山角(なすきやまつの)の松原いつか示さむ
桜田へ鶴(たづ)鳴き渡る 年魚市潟潮干(あゆちがたしほひ)にけらし 鶴鳴き渡る
旅にしてもの恋(こほ)しきに 山下の赤(あけ)のそほ船沖へ漕ぐ見ゆ
もののふの八十宇治川(やそうぢがは)の網代木(あじろき)に いさよふ波の行く方(へ)知らずも
馬ないたく打ちてな行きそ 日(け)ならべて見てもわが行く志賀にあらなくに
天離(あまざか)る鄙(ひな)の長道(ながち)ゆ恋ひ来れば 明石の門(と)より大和島(やまとしま)見ゆ
淡路の野島の崎の浜風に 妹が結びし紐吹きかへす
隼人(はやひと)の薩摩(さつま)の瀬戸(せと)を 雲居なす遠くもわれは今日見つるかも
聞くがごと まこと貴(たふと)く奇(くす)しくも 神さびをるか これの水島
不聴(いな)と言へど強(し)ふる志斐(しい)のが強語(しひがたり) このころ聞かずて 朕(われ)恋ひにけり
大王(おほきみ)は神にしませば 天雲(あまくも)の雷(いかづち)の上に廬(いほ)りせるかも
古(ふ)りにし嫗(おみな)にしてや かくばかり恋に沈まむ 手童(たわらは)のごと
遊士(みやびを)とわれは聞けるを 宿貸さずわれを帰せりおその風流士(みやびを)
たけばぬれ たかねば長き妹(いも)が髪 このころ見ぬに掻き入(れ)つらむか
人言(ひとごと)を繁(しげ)み言痛(こちた)み 己(おの)が世にいまだ渡らぬ朝川渡る
山の辺(へ)の御井(みい)を見がてり 神風(かむかぜ)の伊勢をとめども相見つるかも
大和恋ひ眠(い)の寝らえぬに こころなくこの渚崎廻(すさきみ)に鶴(たづ)鳴くべしや
いづくにか船泊(ふなは)てすらむ 安礼(あれ)の崎漕ぎたみ行きし棚無(たなな)し小舟(をぶね)
嗚呼見(あみ)の浦に船乗(ふなのり)すらむ をとめらが玉裳(たまも)の裾に潮(しほ)満つらむか
これやこの 大和にしてはわが恋ふる 紀路(きぢ)にありとふ名に負ふ背の山
わたつみの豊旗雲(とよはたくも)に入日(いりひ)さし 今夜( こよひ)の月夜(つくよ)さやけかりこそ
君が代もわが代も知るや 岩代(いはしろ)の丘の草根(くさね)をいざ結びてな
秋の野のみ草刈り葺(ふ)き宿れりし 宇治のみやこの仮廬(かりいほ)し思ほゆ
山越(やまこ)しの風を時じみ 寝(ぬ)る夜おちず 家なる妹(いも)をかけて偲(しの)ひつ
たまきはる宇智(うち)の大野に 馬並(な)めて朝踏(あさふ)ますらむその草深野(くさふかの)
大和(やまと)には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あめ)の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立ち立つ 海原(うなはら)は 鷗(かまめ)立ち立つ うまし国ぞ あきつ島 大和の国は
籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ み堀串(ぶくし)持ち この丘に 菜摘(なつ)ます子 家告(の)らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居(を)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告らめ家をも名をも
山吹のにほへる妹が 朱華色(はねずいろ)の赤裳(あかも)の姿 夢(いめ)に見えつつ
河蝦(かはづ)鳴く神名備(かむなび)川に影見えて 今か咲くらむ 山吹の花
花咲きて実は成らずとも 長き日(け)に思ほゆるかも山吹の花
わが背子(せこ)にわが恋ふらくは 奥山の馬酔木(あしび)の花の今盛りなり
池水に影さへ見えて 咲きにほふ馬酔木(あしび)の花を袖に扱入(こき)れな
鴛鴦(をし)の住む君がこの山斎(しま)今日見れば 馬酔木(あしび)の花も咲きにけるかも
水伝ふ磯の浦廻(うらみ)の岩つつじ茂(も)く咲く道を また見なむかも
春柳(はるやなぎ)葛城山(かづらきやま)にたつ雲の 立ちても居ても妹(いも)をしぞ思ふ
直(ただ)に行かず此(こ)ゆ巨勢路(こせぢ)から石瀬(いはせ)踏み 求めぞ吾(あ)が来し 恋ひてすべなみ
巨勢山(こせやま)のつらつら椿 つらつらに見つつ偲(しの)はな巨勢(こせ)の春野を
海原の沖行く船を 帰れとか 領巾(ひれ)振らしけむ 松浦作用姫(まつらさよひめ)
玉鉾(たまほこ)の道に出で立ち別れ来(こ)し日より思ふに 忘るる時なし
わが門(かど)の片山椿(かたやまつばき) まこと汝(なれ)わが手触れなな土に落ちもかも
紫は灰さすものぞ 海石榴市(つばいち)の八十(やそ)の衢(ちまた)に会へる子や誰(たれ)
海石榴市(つばいち)の八十(やそ)の衢(ちまた)に 立ち平(なら)し結びし紐を解かまく惜しも
梅の花今盛りなり 思ふどち插頭(かざし)にしてな 今盛りなり
春されば 木末隠(こぬれがく)れて鶯ぞ鳴きて去(い)ぬなる 梅が下枝(しづえ)に
新(あらた)しき年の始(はじめ)の初春の今日降る雪の いや重(し)け吉事(よごと)
新(あらた)しき年のはじめに 豊(とよ)の年しるすとならし 雪の降れるは
新(あらた)しき年の初めに 思ふどちい群れてをれば 嬉しくもあるか
霜枯(しもが)れの冬の柳は 見る人の蘰(かづら)にすべく 萌えにけるかも
霜曇(しもぐも)り為(す)とにかあらむ ひさかたの夜わたる月の見えなく思へば
君待つと庭のみをれば うちなびくわが黒髪に 霜ぞ置きにける
露霜の衣手(ころもで)濡れて 今だにも妹がり行かな 夜はふけぬとも
おし照る難波(なにわ)堀江の葦辺には 雁寝たるかも 霜の降らくに
秋の田の穂の上(へ)に置ける白露の 消ぬべくも吾(あ)は思ほゆるかも
朝露ににほひそめたる秋山に 時雨(しぐれ)な降りそ あり渡るがね
秋づけば尾花が上に置く露の 消(け)ぬべくも吾(あ)は思ほゆるかも
月草(つきくさ)に衣は摺(す)らむ 朝露にぬれて後には移ろひぬとも
恋しけば袖も振らむを 武蔵野のうけらが花の色に出(づ)な ゆめ
外(よそ)のみに見つつ恋せむ 紅(くれない)の末摘花(すえつむはな)の色に出(い)でずとも
このころの秋の朝明(あさけ)に 霧隠(きりこも)り妻呼ぶ鹿の声のさやけさ
山辺には猟夫(さつを)のねらひ恐(かしこ)けど 雄鹿鳴くなり 妻が目を欲(ほ)り
恋しくは形見にせよと わが背子が植ゑし秋萩花咲きにけり
わが宿の一群萩(ひとむらはぎ)を 思ふ子に見せずほとほと散らしつるかも
わが丘の秋萩の花 風を疾(いた)み散るべくなりぬ 見む人もがも
わが丘にさ雄鹿来鳴く 初萩の花妻(はなづま)問ひに来鳴くさ雄鹿
難波潟(なにはがた)潮干(しほひ)なありそね 沈みにし妹が姿を見まく苦しも
渡守(わたりもり)舟出(ふなで)し出でむ 今夜(こよひ)のみ相見て後は 会はじものかも
ひさかたの天(あま)の川津(かはつ)に舟浮けて 君待つ夜らは明けずもあらぬか
風吹きて川波立ちぬ 引船(ひきふね)に渡りも来ませ 夜のふけぬ間に
君に会はず 久しき時ゆ織る服(はた)の白栲衣(しろたへころも) 垢づくまでに
ぬばたまの夜霧隠(こも)りて遠けども 妹(いも)が伝(つたへ)は早く告げこそ
あからひくしきたへの子を屢(しば)見れば 人妻ゆゑにわれ恋ひぬべし
橘は 実さへ花さへその葉さへ 枝(え)に霜降れどいや常葉(とこは)の木
卯の花を腐(くた)す霖雨(ながめ)の水始(みずはな)に寄る木屑(こづみ)なす 寄らむ子もがも
霍公鳥(ほととぎす)鳴く声聞くや 卯の花の咲き散る丘に 田葛(くず)引くをとめ
山吹の咲きたる野辺のつほすみれ この春の雨に盛りなりけり
石上(いそのかみ)ふるとも雨に障(つつ)まめや 妹に会はむと言ひてしものを
草枕旅を苦しみ恋ひをれば 可也(かや)の山辺にさ雄鹿鳴くも
草枕旅の衣の紐解けぬ 思ほせるかも この年ころは
旅にありて恋ふれば苦し いつしかも都に行きて君が目を見む
わが門(かつ)の五株柳(いつもとやなぎ) 何時(いつ)も何時(いつ)も 母(おも)が恋ひすす業(なり)ましつつも
うちのぼる佐保の川原の青柳は 今は春べとなりにけるかも
ますらをが伏し居嘆きて作りたる しだり柳の蘰(かづら)せ我妹(わぎも)
わが背子が古き垣内(かきつ)の桜花 いまだ含(ふふ)めり 一目見に来(こ)ね
春雨はいたくな降りそ 桜花いまだ見なくに散らまく惜しも
宿にある桜の花は 今もかも 松風速(はや)み地(つち)に散るらむ
小治田(おはりだ)の板田の橋の壊(こぼ)れなば 桁(けた)より行かむ な恋ひそ我妹(わぎも)
明日香川明日も渡らむ 石橋(いははし) の遠き心は思ほえぬかも
明日香川行(ゆ)き廻(み)る丘の秋萩は 今日降る雨に散りか過ぎなむ
年月もいまだ経なくに 明日香川瀬瀬ゆ渡しし石橋(いははし)も無し
大口の真神(まかみ)の原に降る雪は いたくな降りそ 家もあらなくに
わが宿に咲きたる梅を月夜(つくよ)よみ 宵宵(よひよひ)見せむ君をこそ待て
山のまに鶯(うぐひす)鳴きて うちなびく春と思へど 雪降り敷(し)きぬ
今日降りし雪に競(きほ)ひて わが宿の冬木の梅は 花咲きにけり
含(ふふ)めりと言ひし梅が枝(え) 今朝降りし沫雪(あわゆき)にあひて咲きぬらむかも
うら若み花咲きがたき梅を植ゑて 人の言(こと)しげみ思ひぞ吾(あ)がする
梅の花夢(いめ)に語らく 風流(みや)びたる花と吾思(あれも)ふ 酒に浮べこそ
初春の初子(はつね)の今日の玉箒(たまばはき) 手に取るからに ゆらく玉の緒
正月(むつき)たつ春のはじめに かくしつつ相(あひ)し笑(ゑ)みてば 時じけめやも
天(あま)飛ぶや雁のつばさの覆羽(おほひば)の 何処(いづく)漏りてか 霜の降りけむ
雁が音(ね)の寒き朝明(あさけ)の露ならし 春日の山をもみたすものは
雁がねの来鳴きしなへに 韓衣(からころも)竜田(たつた)の山は もみちそめたり
もみち葉の過ぎかてぬ子を 人妻と見つつやあらむ 恋しきものを
わが門(かど)の浅茅(あさぢ)色づく 吉隠(よなばり)の浪柴(なみしば)の野の黄葉(もみち)散るらし
わが宿にもみつ鶏冠木(かへるて)見るごとに 妹をかけつつ恋ひぬ日は無し
秋山にもみつ木の葉の移りなば さらにや秋を見まく欲(ほ)りせむ
この山の黄葉(もみち)が下の花をわれはつはつに見て なほ恋ひにけり
秋萩の枝もとををに露霜(つゆしも)置き 寒くも時はなりにけるかも
このころの暁露(あかときつゆ)に わが宿の萩の下葉は 色づきにけり
わが宿の尾花おしなべ置く露に 手触(たふ)れ我妹子(わぎもこ)散らまくも見む
秋萩に置ける白露 朝な朝な玉としぞ見る 置ける白露
山の辺にい行く猟夫(さつを)は多かれど 山にも野にもさ雄鹿鳴くも
秋萩の恋も尽きねば さ雄鹿の声い続(つ)ぎい続ぎ恋こそまされ
さ雄鹿の妻ととのふと鳴く声の至らむ極(きは)み なびけ 萩原
蟋蟀(こほろぎ)の待ち喜ぶる秋の夜を 寝(ぬ)るしるしなし 枕とわれは
さ雄鹿(をしか)の妻呼ぶ山の丘辺(をかべ)なる早田(わさだ)は刈らじ 霜は降るとも
思はぬに時雨(しぐれ)の雨は降りたれど 天雲(あまぐも)晴れて 月夜(つくよ)さやけし
鴨山(かもやま)の岩根し枕(ま)けるわれをかも 知らにと妹(いも)が待ちつつあらむ
織女(たなばた)の袖つぐ夜の暁(あかとき)は 川瀬の鶴(たづ)は鳴かずともよし
牽牛(ひこほし)の思ひますらむこころより 見るわれ苦し夜のふけゆけば
夕さらず河蝦(かはづ)鳴くなる三輪川の 清き瀬の音を聞かくし良しも
嘆きせば人知りぬべみ 山川(やまがは)の激(たぎ)つこころを塞(せ)かへてあるかも
広瀬川袖つくばかり浅きをや 心深めて吾(あ)が思へるらむ
ぬばたまの黒髪山の山菅(やますげ)に 小雨降りしき しくしく思ほゆ
ひさかたの雨には着ぬを あやしくもわが衣手は乾(ふ)る時なきか
ひさかたの雨は降りしく 思ふ子が宿に今夜(こよひ)は明して行かむ
石上(いそのかみ)ふるとも雨に障(つつ)まめや 妹に会はむと言ひてしものを
霍公鳥 夜鳴(よなき)をしつつわが背子(せこ)を安眠(やすい)な寝しめ ゆめ こころあれ
時ごとにいや珍らしく咲く花を 折りも折らずも見らくしよしも
白玉(しらたま)を包みて遣(や)らば 菖蒲草(あやめぐさ)花橘(はなたちばな)にあへも貫(ぬ)くがね
霍公鳥(ほととぎす)厭(いと)ふ時無し 菖蒲(あやめぐさ)蘰(かづら)にせむ日 此(こ)ゆ鳴き渡れ
我妹子(わぎもこ)に衣春日(ころもかすが)の宜寸川(よしきがわ) 縁(よし)もあらぬか 妹が目を見む
春日山 おして照らせるこの月は 妹(いも)が庭にも清(さや)けかりけり
春日山朝ゐる雲の おほほしく知らぬ人にも恋ふるものかも
春日野の藤は散りにて 何をかも御狩(みかり)の人の折りて插頭(かざ)さむ
春日野に朝ゐる雲の しくしくに吾(あ)は恋ひまさる月に日に異(け)に
春日野の山辺の道を 恐(おそり)なく通ひし君が見えぬころかも
見渡せば春日の野辺に霞立ち 咲きにほへるは桜花かも
春霞立つ春日野を行き帰り われは相見む いや毎年(としのは)に
春日野に粟蒔けりせば 鹿(しし)待ちに継ぎて行かましを 社(やしろ)し留むる
高円(たかまと)の尾花(おばな)吹き越す秋風に紐解き開けな 直(ただ)ならずとも
春日野の浅茅(あさぢ)が上に 思ふどち遊ぶこの日は 忘れえめやも
梅の花今盛りなり 百鳥(ももとり)の声の恋(こほ)しき春来るらし
万代(よろづよ)に年は来経(きふ)とも 梅の花絶ゆることなく咲き渡るべし
世の中は恋しげしゑや かくしあらば 梅の花にも成らましものを
梅の花咲きたる園の青柳(あをやぎ)は 蘰(かづら)にすべく成りにけらずや
国栖(くにす)らが春菜摘むらむ司馬(しば)の野の しばしば君を思ふこのころ
春山の咲きのををりに 春菜摘む妹(いも)が白紐(しらひも) 見らくしよしも
新(あらた)しき年のはじめに 豊(とよ)の年しるすとならし 雪の降れるは
新(あらた)しき年の始めの初春の今日降る雪の いや重(し)け吉事(よごと)
ぬばたまの今夜(こよひ)の雪にいざ濡れな 明けむ朝(あした)に消(け)なば惜しけむ
わが丘の龗(おかみ)に言ひて降らしめし雪のくだけし そこに散りけむ
わが里に大雪降れり 大原の古(ふ)りにし里にふらまくは後(のち)
雲隠り鳴くなる雁の行きて居む秋田の穂立(ほたち) しげくし思ほゆ
今朝の朝明(あさけ) 秋風寒し 遠つ人雁が来(き)鳴(な)かむ時近みかも
雁がねの初声(はつこえ)聞きて咲き出たる宿の秋萩 見に来(こ)わが背子
雁(かり)は来ぬ 萩は散りぬと さ雄鹿の鳴くなる声もうらぶれにけり
秋山の黄葉(もみち)あはれと うらぶれて入りにし妹は待てど来まさず
めづらしき人に見せむと もみち葉を手折りぞ吾(あ)が来し 雨の降らくに
故郷の初もみち葉を手折り持ち 今日ぞわが来し見ぬ人のため
君に恋ひうらぶれ居(を)れば 敷(しき)の野の秋萩凌ぎ さ雄鹿鳴くも
わが宿の萩の花咲けり 見に来ませ いま二日ばかりあらば散りなむ
さ雄鹿の来立(きた)ち鳴く野の秋萩は 露霜負ひて散りにしものを
秋萩を散らす長雨(ながめ)の降るころは ひとり起き居て恋ふる夜ぞ多き
庭草に村雨(むらさめ)ふりて 蟋蟀(こほろぎ)の鳴く声聞けば 秋づきにけり
秋の雨に濡れつつをれば 賤(いや)しけど我妹(わぎも)が宿し思ほゆるかも
秋されば霧立ち渡る 天の川石並置かば継ぎて見むかも
行くさには二人わが見しこの崎を ひとり過ぐれば こころ悲しも
愛(うつく)しき人のまきてし しきたへのわが手枕(たまくら)をまく人あらめや
彦星と織女(たなばたつめ)と 今夜(こよい)会ふ天の川門(かわと)に 波立つなゆめ
天の川霧立ち渡り 彦星の楫(かぢ)の音(と)聞ゆ 夜のふけ行けば
もみち葉の散らふ山辺ゆ漕ぐ船のにほひに愛(め)でて出でて来にけり
大船(おほぶね)に妹(いも)乗るものにあらませば 羽ぐくみ持ちて行かましものを
くの沖つ洲に 船はとどめむ さ夜ふけにけり
大海(おおうみ)に立つらむ波は間(あひだ)あらめ 君に恋ふらく止(や)む時も無し
住吉(すみのえ)の榎津(えなつ)に立ちて見渡せば 武庫(むこ)の泊(とまり)ゆ出づる船人(ふなびと)
韓衣(からころも)君にうち着せ見まく欲(ほ)り 恋ひぞ暮らしし雨の降る日を
今さらに君はい行かじ 春雨のこころを人の知らざらなくに
ひさかたの雨は降(ふ)りしく 思ふ子が宿(やど)に今夜(こよひ)は明(あか)して行かむ
霞立つ春の長日(ながひ)を奥処(おくか)なく 知らぬ山路(やまぢ)を恋ひつつか来(こ)む
君があたり見つつもをらむ 生駒山雲なたなびき 雨は降るとも
君が着る三笠の山に居る雲の 立てば継がるる恋もするかも
門立(かどた)てて戸も閉(さ)したるを 何処(いづく)ゆか妹(いも)が入り来て夢(いめ)に見えつる
山吹のにほへる妹が 朱華色(はねずいろ)の赤裳(あかも)の姿 夢(いめ) に見えつつ
うつつには更にも得(え)言はじ夢(いめ)にだに妹が手本(たもと)をまき寝(ぬ)とし見ば
梅の花 今咲けるごと散り過ぎず わが家(へ)の園(その)にありこせぬかも
正月(むつき)立ち春の来(きた)らば かくしこそ梅を招(を)きつつ楽しき終(を)へめ
あしひきの山の間(ま)照らす桜花 この春雨に散りゆかむかも
春雉(きぎし)鳴く高円(たかまと)の辺(へ)に 桜花散りて流(なが)らふ 見む人もがも
紅(くれなゐ)に深く染みにしこころかも 奈良の都に年の経(へ)ぬべき
世間(よのなか)の常なきものと今ぞ知る 奈良の都の移ろふ見れば
あをによし奈良の都にたなびける天(あま)の白雲 見れど飽かぬかも
あをによし奈良の都は 咲く花の薫(にほ)ふがごとく今盛りなり
あをによし奈良の家には万代(よろづよ)にわれも通はむ忘ると思ふな
梅の花(はな)香(か)をかぐはしみ 遠けども 心もしのに君をしぞ思ふ
うらめしく君はもあるか 宿の梅の散り過ぐるまで 見しめずありける
鶯の鳴きし垣内(かきつ)ににほりへりし 梅この雪に移ろふらむか
梅の花咲けるが中に含めるは 恋や籠れる 雪を待つとか
青柳(あをやぎ)の上枝(ほつえ)攀(よ)ぢ取り蘰(かづら)くは 君が宿(やど)にし千年(ちとせ)寿(ほ)くとぞ
大宮(おほやみ)の内にも外(と)にも光るまで 降れる白雪見れど飽かぬかも
新(あらた)しき年の初めに 思ふどちい群れてをれば 嬉しくもあるか
新(あらた)しき年のはじめに 豊(とよ)の年しるすとならし 雪の降れるは
憶良らは今は罷(まか)らむ 子泣くらむ それその母も吾(あ)を待つらむぞ
秋の田のわが刈りばかの過ぎぬれば 雁が音(ね)聞(きこ)ゆ冬かたまけて
天(あま)飛(と)ぶや雁を使(つかひ)に得てしかも 奈良の都に言告げ(ことつげ)遺(や)らむ
秋されば雁(かり)飛び越ゆる竜田山(たつたやま)立ちても居ても君をしぞ思ふ
露霜(つゆしも)にあへる黄葉(もみち)を手折(たお)り来て 妹(いも)とかざしつ後は散るとも
山ぢさの白露しげみ あらぶるる心も深くわが恋止まず
わが宿の尾花おしなべ置く露に 手触(たふ)れ我妹子(わぎもこ) 散らまくも見む
このころの秋風寒し 萩の花散らす白露置きにけらしも
をとめらに行(ゆき)あひの早稲(わせ)を刈る時に成りにけらしも 萩の花咲く
わが宿の萩の末(うれ)長し 秋風の吹きなむ時に咲かむと思ひて
隠(こも)りのみ恋ふれば苦し なでしこの花に咲き出(で)よ 朝な朝な見む
石竹(なでしこ)のその花にもが 朝な朝な 手に取り持ちて恋ひぬ日無けむ
見渡せば向ひの野辺の石竹(なでしこ)の散らまく惜しも 雨な降りそね
わが里に今咲く花の女郎花(をみなへし)堪(あ)へぬこころになほ恋ひにけり
萩の花 尾花葛花なでしこの花 女郎花また藤袴朝顔の花
秋の野の尾花が末(うれ)に鳴く百舌鳥(もず)の 声聞くらむか 片聞(かたき)け我妹(わぎも)
夕立の雨降るごとに 春日野の尾花が上の白露思ほゆ
このころの秋の朝明(あさけ)に 霧隠(きりこも)り妻呼ぶ鹿の声のさやけさ
秋さらば見つつ偲(しの)へと 妹(いも)が植 ゑし宿(やど)の石竹花(なでしこ)咲きにけるかも
かくのみにありけるものを 妹(いも)も吾(あれ)も 千歳(ちとせ)のごとく頼みたりける
大船のたゆたふ海に碇(いかり)下(おろ)し 如何(いか)にせばかも わが恋止(や)まむ
海(うみ)つ路(じ)の和(な)ぎなむ時も渡らなむ かく立つ波に船出(ふなで)すべしや
いづくにか船泊(ふなは)てすらむ 安礼(あれ)の崎(さき)漕ぎたみ行きし棚無(たなな)し小舟(をぶね)
大空ゆ通ふわれすら 汝(なれ)ゆゑに天の川路を なづみてぞ来し
あからひくしきたへの子を屢(しば)見れば 人妻ゆゑにわれ恋ひぬべし
彼方(をちかた)の赤土(はにふ)の小屋(をや)に 小雨降り床(とこ)さへ濡れぬ 身にそへ我妹(わぎも)
雨間(あまま)あけて国見(くにみ)もせむを 故郷(ふるさと)の花橘は散りにけむかも
麻裳(あさも)よし紀(き)へ行く君が 真土山(まつちやま)越ゆらむ今日(けふ)ぞ 雨な降りそね
はなはだも降らぬ雨ゆゑ にはたづみいたくな行きそ 人の知るべく
山吹の咲きたる野辺のつほすみれ この春の雨に盛りなりけり
春されば我家(わぎへ)の里の川門(かはと)には 鮎子(あゆこ)さ走る 君待ちがてに
我(わ)ろ旅は旅と思(おも)ほど 家にして子持ち痩すらむわが妻(み)かなしも
草枕旅に久しくなりぬれば 汝をこそ思へ な恋ひそ我妹よ
旅にして妻恋すらし 霍公鳥(ほととぎす)神名備山(かんなびやま)にさ夜ふけて鳴く
春雨の止まず降る降る わが恋ふる人の目すらを相見せなくに
今さらに君はい行かじ 春 雨のこころを人の知らざらなくに
わが背子に恋ひてすべ無み 春雨の降るわき知らず出(い)でて恋(こ)しかも
春霞立ちにし日より 今日までにわが恋止(や)まず 本(もと)のしげけば
春霞が山にたなびき、ぼんやりとあの子を見ると 後に恋しく思うかなあ
ぬばたまの夜さり来れば 巻向の川音(かはと)高しも 嵐かも疾き
巻向の 山辺とよみて 行く水の水沫のごとし世の人われは
三輪山の山下響(とよ)み行く水の水脈(みを)し絶えずは 後もわが妻
味酒(うまさけ)を三輪の祝(はふり)がいはふ杉 手触(てふ)れし罪か 君に会ひがたき
三輪山をしかも隠すか 雲だにもこころあらなも隠さふべしや
峰(を)の上に降り置ける雪し 風のむた此処に散るらし 春にはあれども
水鳥の鴨の羽色(はいろ)の春山の おほつかなくも思ほゆるかも
こころぐきものにぞありける 春霞たなびく時に恋のしげきは
冬ごもり春咲く花を手折(たお)り持ち 千度(ちたび)の限り恋ひ渡るかも
霜枯れの冬の柳は 見る人のかづらにすべく 萌えにけるかも
新しき年の初めに 思ふどちい群れてをれば 嬉しくもあるか
新(あらた)しき年のはじめに 豊(とよ)の年しるすとならし 雪の降れるは
夕凝りの霜置きにけり 朝戸出にいたくし踏みて 人に知らゆな
おし照る難波(なには)堀江の葦辺には 雁寝たるかも 霜の降らくに
葦辺(あしべ)行く 鴨(かも)の羽(はね)がひに 霜降りて 寒き夕べは 大和し思ほゆ
秋萩の 下葉(したば)もみちぬ あらたまの 月の経ゆけば 風疾(いた)みかも
雁がね の 来(き)鳴きしなへに 韓衣(からころも) 竜田(たつた)の山は もみちそめたり
今朝の朝明(あさけ)雁(かり)が音(ね)聞きつ 春日山(かすがやま)黄葉(もみち)にけらし わがこころ痛(いた)し
さ雄鹿の入野(いりの)のすすき初尾花(はつおばな) いつしか妹(いも)が手を枕(まくら)かむ
東(ひむかし)の 野に炎(かぎろひ)の 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ
秋萩の恋も尽きねば さ雄鹿の声い続ぎい続ぎ恋こそまされ
ことさらに 衣(ころも)は摺(す)らじ 女郎花(をみなへし) 佐紀野の萩に にほひて居(を)らむ
女郎花(をみなへし) 咲きたる野辺を 行きめぐり君を思い出 たもとほり来ぬ
女郎花(をみなへし) 佐紀野に生(お)ふる 白(しら)つつじ 知らぬこと以(も)ち 言はれしわが背(せ)
藤原の古(ふ)りにし里の 秋萩は 咲きて散りにき 君待ちかねて
君に恋ひ うらぶれ居(を)れば 敷(しき)の野の 秋萩凌(しの)ぎ さ雄鹿鳴くも
玉梓(たまづさ)の君が使の手折(てを)りける この秋萩は見れど飽かぬかも
秋萩の枝もとををに置く露の 消(け)なば 消(け)ぬとも 色に出(い)でめやも
秋風の吹きにし日より いつしかとわが待ち恋ひし君ぞ来ませる
今夜(こよひ)の早く明けなば 術(すべ)を無み 秋の百夜(ももよ)を願ひつるかも
秋の田の穂向(ほむき)の寄れる異寄りに 君に寄りなな言痛(こちた)かりとも
後(のち)見むと君が結べる岩代(いわしろ)の 小松がうれを また見けむかも
み熊野の浦の浜木綿(はま ゆふ)百重(ももへ)なす心は思(も)へど 直(ただ)に会はぬかも
紫のまだらの蘰(かづら) はなやかに今日見る人に 後(のち)恋ひむか
も
春されば まづ三枝(さきくさ)の幸(さき)くあらば 後にも会はむ な恋ひそ我妹(わぎもこ)
大海の水底(みなそこ)とよみ立つ波の 寄らむと思(も)へる磯の清(さや)けさ
わたつみの沖つ白波立ち来らし 海人(あま)をとめども島隠(がく)る見ゆ
海若(わたつみ)の沖つ玉藻の なびき寝む はや来ませ君待たば苦しも
おし照る難波菅笠(すがかさ)置き古し 後は誰(た)が着む 笠ならなくに
杜若(かきつはた)佐紀沼(さきぬ)の菅(すげ)を笠に縫ひ着む日を待つに 年ぞ経にける
麻裳(あさも)よし紀へ行く君が 真土山(まつちやま)越ゆらむ今日ぞ雨な降りそね
ひさかたの雨の降る日を ただひとり山辺にをれば いぶせかりけり
山吹の咲きたる野辺のつほすみれ この春の雨に盛りなりけり
現(うつつ)には直(ただ)には会はね 夢(いめ)にだに会ふと見えこそわが恋ふらくに
夕さらば屋戸(やど)開け設(ま)けてわれ待たむ 夢(いめ)に相見に来むとふ人を
旅にすら帯解くものを 言繁(ことしげ)み丸寝(まろね)わがする 長きこの夜を
漁(あさり)する人とを見ませ 草枕旅行く人に わが名は告(の)らじ
旅にして物恋しきに 鶴(たづ)が音も聞えざりせば恋ひて死なまし
春雨はいたくな降りそ 桜花いまだ見なくに散らまく惜しも
梅の花咲きて散りなば 桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや
香具山に雲居たなびき おほ ほしく相見し子らを後恋ひむかも
石見のや高角山(たかつのやま)の木の間より わが振る袖を妹見つらむか
あをによし奈良の大路は行きよけど この山道は行き悪しかりけり
我妹子(わぎもこ)に衣春日(ころもかすが)の宜寸川(よしきがわ) 縁(よし)もあらぬか 妹が目を見む
春日野に煙立つ見ゆ をとめらし春野のうはぎ摘みて煮らしも
春の野に心伸べむと 思ふどち来し今日の日は暮れずもあらぬか
かくしつつあり慰めて 玉の緒の絶えて別ればすべなかるべし
小竹(ささ)の葉はみ山もさやにさやげども われは妹思ふ 別れ来ぬれば
君が行(ゆき)もし久(ひさ)にあらば 梅柳誰とともにか わが蘰(かづら)かむ
妹がため上枝(ほつえ)の梅を手折るとは 下枝(しづえ)の露に濡れにけるかも
雪見ればいまだ冬なり しかすがに 春霞立ち梅は散りつつ
このころのわが恋力 記し集め 功に申さば五位の冠(かがふり)
年月はあらたあらたに相見れど 吾が思ふ君は 飽き足らぬかも
正月(むつき)たつ春のはじめに かくしつつ相し笑みてば 時じけめやも
家にあらば妹が手まかむ 草枕旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ
夜を寒み 朝戸を開き出で見れば 庭もはだらにみ雪降りたり
あしひきの山かも高き 巻向の岸の小松にみ雪降り来る
雪こそは春日消ゆらめ 心さへ消え失せたれや言も通はぬ
然とあらぬ五百代小田(いほしろをだ)を刈り乱り 田廬(たぶせ)に居れば都し思ほゆ
秋田刈る旅の廬(いほり)に時雨降り わが袖濡れぬ 乾す人なしに
はだすすき穂には咲き 出ぬ恋をわがする 玉かぎるただ一目のみ見し人ゆゑに
さ雄鹿の入野のすすき初尾花 いつしか妹が手を枕かむ
草深み蟋蟀(こほろぎ)多に鳴く宿の 萩見に君は何時か来まさむ
わが宿の尾花が上の白露を 消たずて玉に貫くものにもが
高円の秋の野の上の瞿麦(なでしこ)の花 うらわかみ人のかざしし瞿麦の花
わが宿の瞿麦(なでしこ)の花盛りなり 手折りて一目見せむ子もがも
葦辺なる荻(をぎ)の葉さやぎ 秋風の吹き来るなへに 雁鳴き渡る
秋風は日にけに吹きぬ 我妹子は何時とかわれを斎(いは)ひ待つらむ
恋ひつつも稲葉かき分け家居れば 乏くもあらず 秋の夕風
秋の野に咲きたる花を 指(および)折りかき数ふれば 七種(ななくさ)の花
秋さらば移しもせむとわが蒔きし韓藍(からあゐ)の花を誰か摘みけむ
今夜の早く明けなば 術を無み 秋の百夜を願ひつるかも
秋の田の穂の上に霧らふ朝霞 いつへの方にわが恋ひやまむ
都なる荒れたる家にひとり寝ば 旅にまさりて苦しかるべし
鴨山の岩根し枕けるわれをかも 知らにと妹が待ちつつあらむ
旅なれば夜中をさして照る月の 高島山に隠らく惜しも
草枕旅に久しくなりぬれば 汝(な)をこそ思へ な恋ひそ我妹(わぎも)
旅にしてもの恋(こほ)しきに 山下の赤(あけ)のそほ船沖へ漕ぐ見ゆ
夏影の房(つまや)の下に衣裁つ我妹(わぎも) 裏設けてわがため裁たばやや大(おほ)に裁て
天の川揖(かぢ)の音聞ゆ 彦星と織女と 今夜会ふらしも
彦星と織女(たなばたつめ)と 今夜会ふ天の川門(かわと)に 波立つ なゆめ
韓衣(からころも)君にうち着せ見まく欲り 恋ひぞ暮らしし雨の降る日を
今行きて聞くものにもが 明日香川 春雨降りて激つ瀬の音を
ひさかたの雨は降りしく 思ふ子が宿に今夜は明して行かむ
山吹の咲きたる野辺のつほすみれ この春の雨に盛りなりけり
旅にすら帯解くものを 言繁(ことしげ)み丸寝わがする 長きこの夜を
間なく恋ふれにかあらむ 草枕旅なる君が夢にし見ゆる
草枕旅の丸寝(まるね)の紐絶えば 吾(あ)が手とつけろ これの針持(はるも)し
道の中国つ御神(みかみ)は 旅行きも為知らぬ君を 恵みたまはな
池水に影さへ見えて 咲きにほふ馬酔木の花を袖に扱入(こき)れな
わが背子にわが恋ふらくは 奥山の馬酔木の花の今盛りなり
河蝦(かはづ)鳴く吉野の川の滝(たぎ)の上の馬酔木の花ぞ 末(はし)に置くな ゆめ
磯のうへに生ふる馬酔木を手折らめど 見すべき君がありと言はなくに
別れなばうら悲しけむ 吾(あ)が衣下(ころもした)にを着ませ 直(ただ)に会ふまでに
あをによし奈良の都は 咲く花の薫ふがごとく今盛りなり
このころのわが恋力(こひぢから) 記し集め 功に申さば五位の冠(かがふり)
春日なる三笠の山に月の船出づ 遊士の飲む酒坏に影に見えつつ
故郷の飛鳥はあれど あをによし平城の明日香を見らくしよしも
うち日さす宮路に会ひし人妻ゆゑに 玉の緒の思ひ乱れて寝(ぬ)る夜しぞ多き
春雨に萌えし柳か 梅の花ともに後れぬ常の物かも
雪見ればいまだ冬なり しかすがに 春霞立ち梅は散りつつ
沫雪のこのころ継ぎ てかく降れば 梅の初花散りか過ぎなむ
今日降りし雪に競ひて わが宿の冬木の梅は 花咲きにけり
残りたる雪にまじれる梅の花 早くな散りそ 雪は消ぬとも
正月たつ春のはじめに かくしつつ相し笑みては時じけめやも
新(あらた)しき年の始めの初春の今日降る雪の いや重(し)け吉事(よごと)
中臣の太祝詞(ふとのりとごと)言ひ祓へ 贖(あか)ふ命も誰がために汝
賢(さか)しみともの言ふよりは 酒飲みて酔泣するしまさりたるらし
験(しるし)なきものを思はずは 一杯(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあるらし
雁がねの初声聞きて咲き出たる宿の秋萩 見に来わが背子
鶴(たづ)がねの今朝鳴くなへに 雁がねは何処(いづく)指してか雲隠るらむ
露霜の寒き夕(ゆふべ)の秋風にもみちにけりも 妻梨の木は
あしひきの山さな葛(かづら)もみつまで 妹に会はずや わが恋ひをらむ
今朝の朝明(あさけ) 雁が音聞きつ 春日山黄葉にけらし わがこころ痛し
秋萩の下葉もみちぬ あらたまの月の経ゆけば 風疾(いた)みかも
赤駒のい行きはばかる真葛原(まくずはら) 何の伝言(つてごと) 直(ただ)にし良(え)けむ